LOGIN日曜日の朝、アオイはユウカとの約束通り、図書館へ向かった。丘を登る石段は少し急で、息が切れる。でも、その先に広がる景色は美しかった。
図書館は、街で一番高い場所にあった。石造りの建物は重厚で、どこか別の時代から切り取られてきたような雰囲気を醸し出していた。
「アオイ! こっちこっち!」
ユウカが手を振っていた。既に図書館の前で待っていたらしい。
「ごめん、遅くなった」
「ううん、私も今来たところ。さあ、入ろう」
重い木の扉を開けると、古い紙の匂いが鼻をついた。図書館の中は薄暗く、本棚が迷路のように並んでいた。窓から差し込む光が、埃の粒子を照らし出している。
カウンターには、老人の司書が座っていた。白髪で、丸い眼鏡をかけている。アオイたちを見ると、優しく微笑んだ。
「いらっしゃい。ゆっくり見ていってね」
「ありがとうございます」
ユウカは慣れた様子で奥へ進んでいった。アオイも後に続く。本棚の間を歩きながら、背表紙を眺めた。古い本が多く、中には百年以上前に出版されたものもあるようだった。
「ねえ、アオイ。この本、面白そうじゃない?」
ユウカが一冊の本を手に取った。『星の観測者』というタイトルだった。
「観測者?」
「うん。星を観測する人の話らしいよ。ロマンチックじゃない?」
アオイはその本を手に取り、ページをめくった。古い活字が並んでいる。最初の数行を読んだとき、奇妙な感覚に襲われた。
この本を、前にも読んだ気がする。いや、読んだことはないはずだ。でも、この文章を、確かに知っている。
「どうしたの、アオイ?」
「ううん、何でもない」
アオイは本を棚に戻した。ユウカは不思議そうな顔をしたが、それ以上は聞かなかった。
二人は図書館の中を歩き回った。奥の方には、誰も来ないような古い書庫があった。埃をかぶった本が、忘れ去られたように並んでいる。
「こんな場所もあるんだね」
アオイがつぶやいた。ユウカは周りを見回しながら言った。
「私、ここに来るの初めてかも。いつもは手前の棚しか見ないから」
アオイは、ふと一冊の本に目を留めた。革装丁の古い本で、背表紙には何も書かれていない。引き抜いてみると、意外と軽かった。
表紙を開く。タイトルページには、こう書かれていた。
『観測日記 1975年』
1975年。五十年前だ。アオイはページをめくった。
それは、日記だった。誰かが手書きで記した記録。インクは褪せているが、まだ読める。
『4月1日 晴れ 今日から、この街での生活が始まった。みんな親切で、とても穏やかな場所だ。でも、少しだけ奇妙なことがある。夕方五時を過ぎたら、外に出てはいけないという。理由を聞いても、誰も教えてくれない。』
アオイの心臓が、ドクンと跳ねた。五時のルール。それは今も変わっていない。
さらにページをめくる。
『4月15日 曇り 最近、デジャヴを感じることが多い。同じ会話を、前にもしたような気がする。でも、それは思い込みかもしれない。』
アオイの手が震えた。まさに、自分が感じていることと同じだ。
そして、次のページ。
『5月3日 雨 今日、不思議なことに気づいた。この街の猫は、みんな片方の目だけ青い。どの猫も、例外なく。それから、時計塔の秒針が、時々逆に動いているように見える。私の目の錯覚だろうか。』
アオイは息を呑んだ。猫。時計。すべて、自分が見てきたものと同じだ。
さらにページをめくろうとしたとき、ユウカの声が聞こえた。
「アオイ、そろそろ帰ろうよ。お昼の時間だし」
「あ、うん……」
アオイは日記を見つめた。そして、最後のページを開いた。
そこには、大きな文字でこう書かれていた。
『私の名前は、柊アオイ。もし、この日記を読んでいるあなたが同じ名前なら、これは偶然ではない。』
アオイは、声を失った。
「アオイ? 大丈夫? 顔色悪いよ」
ユウカが心配そうに覗き込んでくる。アオイは慌てて日記を閉じた。
「何でもない。ちょっと、気分が……」
「じゃあ、外の空気を吸おう。ほら、行こう」
ユウカに手を引かれ、アオイは図書館を出た。でも、頭の中は混乱していた。
五十年前の日記。そこに書かれていた名前。柊アオイ。
それは、自分と同じ名前だった。
その日の午後、アオイは一人で自分の部屋にいた。窓から外を見ると、いつもと変わらない街の風景が広がっている。でも、今はすべてが違って見えた。
五十年前にも、同じ名前の少女がこの街にいた。そして、彼女も同じことを感じていた。デジャヴ。片目が青い猫。逆回転する時計。
偶然だろうか。それとも――
アオイは立ち上がり、本棚から一冊のノートを取り出した。自分の日記だ。最近は書いていなかったが、今日のことは記録しておきたかった。
『日曜日 晴れ 図書館で奇妙な日記を見つけた。五十年前の日記で、書いた人の名前は私と同じ「柊アオイ」だった。そこには、私が今感じているのと同じことが書かれていた。これは何を意味しているのだろう。』
書きながら、アオイは自分の手が震えていることに気づいた。恐怖ではない。何か、もっと深い感情。知りたいという欲求と、知りたくないという恐怖が混ざり合った、複雑な感情。
夕食のとき、母に尋ねてみた。
「ねえ、お母さん。五十年前に、この街に柊アオイっていう人がいたって聞いたことある?」
母は箸を止め、不思議そうな顔をした。
「柊アオイ? それは、あなたの名前じゃない」
「そうじゃなくて、昔の人で――」
「さあ、知らないわ。なぜそんなことを聞くの?」
母の表情には、何の曇りもなかった。本当に知らないようだ。
「ううん、何でもない」
アオイは話題を変えた。でも、心の中では疑問が渦巻いていた。
その夜、ベッドの中でアオイは天井を見つめた。月明かりが、カーテンの隙間から差し込んでいる。
なぜ、五十年前の日記に自分と同じ名前が書かれていたのか。なぜ、彼女も同じことを感じていたのか。
そして、その日記の続きには、何が書かれているのだろうか。
アオイは決心した。明日、また図書館に行こう。そして、あの日記の続きを読もう。
真実を知りたい。たとえ、それが恐ろしいものであったとしても。
アオイは目を閉じた。でも、なかなか眠れなかった。頭の中で、様々な可能性が駆け巡る。
やがて、深夜になってようやく眠りに落ちた。そして、夢を見た。
夢の中で、アオイは図書館の書庫にいた。薄暗い空間に、無数の本が並んでいる。そして、その一冊一冊に、「柊アオイ」という名前が書かれていた。
アオイは一冊の本を手に取った。開いてみると、そこには自分の人生が書かれていた。今日起きたこと。今日感じたこと。すべてが、活字になって並んでいる。
最後のページをめくると、そこには未来のことが書かれていた。
『明日、アオイは真実を知る。そして、選択を迫られる。』
アオイは目を覚ました。汗びっしょりだった。時計を見ると、午前三時。まだ夜中だ。
窓の外を見ると、月が雲に隠れていた。街は静まり返り、何の音も聞こえない。
アオイは、ベッドに横たわったまま、朝が来るのを待った。
アオイは時計塔へ向かった。今度は、躊躇しなかった。 らせん階段を駆け上がり、機械室に入った。巨大な歯車が回り続けている。 アオイは、あの装置に近づいた。モニターには、カウントダウンが表示されていた。『次回リセットまで:39時間12分』 その下には、相変わらず二つのボタンがあった。赤い「リセット」と、青い「停止」。 でも、今回アオイが注目したのは、その隣にある小さなパネルだった。 パネルには、キーボードのようなものがついている。そして、その上に「管理者コマンド」と書かれていた。 アオイは、ノートを取り出した。最後のページに、暗号のような文字列が書かれていた。『もし、ここまで辿り着いたなら、このコードを入力しなさい:OBSERVER_PARADOX_7891』 アオイは、その文字列を入力した。 するとモニターが点滅し、新しい画面が現れた。『管理者モード 認証成功 現在のシステム状態:稼働中 実験サイクル:第48回 被験者ID:A-001(柊アオイ) 観測者ID:なし』 観測者IDが、なしになっている。 つまり、老人が言ったことは嘘だったのか。自分は観測者ではなく、やはり被験者なのか。 アオイは、メニューを操作した。様々な項目が並んでいる。『システムログ』『被験者データ』『環境設定』『リセット履歴』―― その中で、『真実の記録』という項目が目を引いた。 アオイは、それを選択した。 画面が
水曜日の朝、アオイは学校を休むことにした。母に体調不良を告げ、部屋に残った。 もう、日常を演じている余裕はなかった。 アオイは、ノートを読み返した。歴代の柊アオイたちが残した記録。彼女たちの発見、推測、そして失敗。 特に、第三十二代目の記録が興味深かった。『私は気づいた。この実験の本当の目的は、「観測」そのものにある。 被験者である私たちが、どのように世界を認識し、どのように異常に気づき、どのように反応するか。そのプロセスこそが、研究の対象なのだ。 つまり、私たちは観測される存在であると同時に、観測する存在でもある。』 観測者であり、被観測者である。そのパラドックス。 アオイは、窓の外を見た。いつもと変わらない街の風景。でも、それは本当に「いつもと同じ」なのだろうか。 ふと、思いついた。 もし、自分が観測者の立場だとしたら―― アオイは図書館へ向かった。老人に会う必要があった。 図書館に着くと、老人はカウンターにいた。アオイの姿を見て、微笑んだ。「また来ましたね」「聞きたいことがあります」「どうぞ」 アオイは、真っ直ぐに尋ねた。「私は、本当に被験者なんですか?」 老人の表情が、わずかに変化した。「どういう意味ですか?」「地下の記録には、私が被験者だと書いてありました。でも、もしかして……私は観測者の側なんじゃないですか?」
火曜日の朝、アオイは早起きした。学校へ行く前に、パン屋に立ち寄るためだ。 パン屋は、街の中心部にあった。小さな店で、いつも焼きたてのパンの香りが漂っている。店主は優しそうな中年の女性で、いつも笑顔で客を迎えていた。「おはよう、アオイちゃん。今日は早いのね」「おはようございます。朝ごはん用のパンを買いに来ました」 アオイは店内を見回した。棚には、様々な種類のパンが並んでいる。クロワッサン、バゲット、メロンパン、あんぱん…… そして、アオイは気づいた。先週の火曜日、ユウカと一緒に通りかかったとき、同じパンが同じ位置に並んでいた。 アオイは数を数え始めた。クロワッサンが十二個、バゲットが八本、メロンパンが十五個…… すべて、記憶の中の数と一致した。「どれにする?」 店主が尋ねた。「あの……毎週火曜日、同じパンを同じ数だけ焼いているんですか?」 店主の表情が、一瞬だけ固まった。でもすぐに笑顔に戻った。「そうよ。火曜日は、決まったメニューなの。お客さんが覚えやすいように」「でも、売れ残ったらどうするんですか?」「不思議なことに、いつもちょうど売り切れるのよ」 その答えに、アオイは確信した。これもまた、プログラムされたパターンなのだ。「クロワッサンを二つください」「はい、どうぞ」 パンを受け取り、店を出た。学校
アオイは、どのくらいその場にいただろうか。時間の感覚が失われていた。頭の中は、混乱と恐怖でいっぱいだった。 自分は、実験の被験者だった。この街も、住人たちも、すべてが実験の一部だった。そして、記憶は何度もリセットされている。 でも、待って。アオイは立ち上がり、もう一度ファイルを読んだ。 これまでの実施回数、四十七回。現在は四十八代目。 ということは、五十年前の日記を書いた柊アオイは、もっと前の世代なのか。それとも―― アオイは、ファイルをさらに調べた。古い記録が挟まれている。『第1回 1975年4月1日~9月28日 結果:被験者は真実に到達。記憶リセット実施。』『第2回 1975年10月1日~1976年3月15日 結果:被験者は真実に到達。記憶リセット実施。』 記録は続いている。そして、興味深いことに気づいた。 すべての実験は、同じ「柊アオイ」という被験者に対して行われている。しかし、実施日は異なる。あるものは数ヶ月、あるものは数週間で終わっている。 つまり――同じ人物の記憶を、何度もリセットして、繰り返し実験しているのだ。 アオイは震えた。では、自分は誰なのか。本当に十四歳なのか。それとも、もっと年を取っているのか。 いや、違う。時間の流れ自体が、この実験では操作されているのかもしれない。 アオイは階段を駆け上がった。図書館の書庫に戻ると、老人はまだそこにいた。「真実を、知ったのですね」 老人の声は、穏やかだった。「あなたは……誰なんです
月曜日の放課後、アオイは学校を早退した。体調不良と告げて、保健室から出た。嘘をついたことに罪悪感を感じたが、それ以上に、あの日記の続きを読みたいという欲求が勝っていた。 丘を登る石段を、息を切らしながら駆け上がる。図書館の扉を開けると、例の司書の老人がカウンターにいた。「あら、また来てくれたの?」「はい……本を、探していて」「どうぞ、ゆっくり」 アオイは書庫へ向かった。昨日見つけた場所。革装丁の日記が置いてあった棚。 しかし―― そこには、何もなかった。 アオイは慌てて周りを探した。他の棚も、床も、どこにも日記はなかった。消えてしまったのか。それとも、誰かが持って行ったのか。「何をお探しですか?」 背後から声がした。振り返ると、司書の老人が立っていた。いつの間に来たのだろう。足音も聞こえなかった。「あの……昨日、ここにあった日記なんですけど……」「日記?」 老人は首を傾げた。「革装丁の、古い日記です。1975年の観測日記って書いてありました」「ああ……」 老人は何かを思い出したような表情をした。「それなら、奥の閲覧室にあるかもしれません。特別な本は、そちらで管理しているので」「閲覧室?」「ええ。こちらへどうぞ」 老人は書庫の奥へと歩いていった。アオイは後に続く。 書庫の最も奥には、小さな扉があった。老人はポケットから鍵を取り出し、それを開けた。「ここが閲覧室です。どうぞ」 扉の向こうは、小さな部屋だった。窓が一つあり、机と椅子が置かれている。そして、棚には数冊の本が並んでいた。 その中に、あの革装丁の日記があった。「これです!」 アオイは日記を手に取った。老人は優しく微笑んだ。「その本は、特別な本なんです。読む人を選ぶ本、と言ってもいいかもしれません」「読む人を選ぶ……?」「ええ。では、ごゆっくり」 老人は部屋を出て、扉を閉めた。アオイは一人、閲覧室に残された。 机に座り、日記を開く。前回読んだページを探し、その続きから読み始めた。『5月10日 晴れ 私は、この街に何か秘密があると確信した。そこで、調べることにした。夜、五時を過ぎてから外に出てみることにする。』 アオイは息を呑んだ。五時のルールを破ったのか。『5月11日 曇り 昨夜、五時を過ぎてから外に出た。街は静まり返っていた。でも、奇妙なこ
日曜日の朝、アオイはユウカとの約束通り、図書館へ向かった。丘を登る石段は少し急で、息が切れる。でも、その先に広がる景色は美しかった。 図書館は、街で一番高い場所にあった。石造りの建物は重厚で、どこか別の時代から切り取られてきたような雰囲気を醸し出していた。「アオイ! こっちこっち!」 ユウカが手を振っていた。既に図書館の前で待っていたらしい。「ごめん、遅くなった」「ううん、私も今来たところ。さあ、入ろう」 重い木の扉を開けると、古い紙の匂いが鼻をついた。図書館の中は薄暗く、本棚が迷路のように並んでいた。窓から差し込む光が、埃の粒子を照らし出している。 カウンターには、老人の司書が座っていた。白髪で、丸い眼鏡をかけている。アオイたちを見ると、優しく微笑んだ。「いらっしゃい。ゆっくり見ていってね」「ありがとうございます」 ユウカは慣れた様子で奥へ進んでいった。アオイも後に続く。本棚の間を歩きながら、背表紙を眺めた。古い本が多く、中には百年以上前に出版されたものもあるようだった。「ねえ、アオイ。この本、面白そうじゃない?」 ユウカが一冊の本を手に取った。『星の観測者』というタイトルだった。「観測者?」「うん。星を観測する人の話らしいよ。ロマンチックじゃない?」 アオイはその本を手に取り、ページをめくった。古い活字が並んでいる。最初の数行を読んだとき、奇妙な感覚に襲われた。 この本を、前にも読んだ気がする。いや、読んだことはないはずだ。でも、この文章を、確かに知っている。「どうしたの、アオイ?」「ううん、何でもない」 アオイは本を棚に戻した。ユウカは不思議そうな顔をしたが、それ以上は聞かなかった。 二人は図書館の中を歩き回った。奥の方には、誰も来ないような古い書庫があった。埃をかぶった本が、忘れ去られたように並んでいる。「こんな場所もあるんだね」 アオイがつぶやいた。ユウカは周りを見回しながら言った。「私、ここに来るの初めてかも。いつもは手前の棚しか見ないから」 アオイは、ふと一冊の本に目を留めた。革装丁の古い本で、背表紙には何も書かれていない。引き抜いてみると、意外と軽かった。 表紙を開く。タイトルページには、こう書かれていた。『観測日記 1975年』 1975年。五十年前だ。アオイはページをめくった。 それは、